みなさん、こんにちは!
大宮10期の大橋 弘子です。
広島1期の戸田 裕之さんを取材させていただきました。
戸田さんとは、
私が協会加入後、2020年3月に、
あるプロジェクトでご一緒しました。
私は、2020年4月に創業し、
世の中は、コロナでカオスのような状況で、
この先、どうやって活動をしていったらいいか
思慮していた時に、戸田さんからひと言
「大橋さん、コロナは気にしなくていいよ。
大橋さんのしたいように活動してごらん」
と言っていただき、救われました。
戸田さんのあの一言がなかったら、
迷ったまま時間だけが過ぎていたかもしれません。
*ときほぐすは、戸田さんの
Facebook投稿の冒頭にいつも記載があります。
戸田さんの人生の転機は、
何歳の時でしたか?
・23歳
「工業化社会の幕引きをしたい」と
造船所のクレーンを見て
突然考えました。
研究者の立場で
やりたいと考えていましたが、
就職活動がうまく行かず、
製造現場の人になりました。
・28歳
中小企業診断士合格。
30歳すぎたぐらいで退職して、
コンサルティングファームで
やっていけると考えました。
・37歳
社内の諸事情で、興味を持つことが
できそうにない事業に
携わることになりました。
今度こそやめようかと
考えましたが、神戸が
良いところだったので、
しばらくやってみようと判断保留。
ある社会インフラの海外案件で
身振り手振りの提案対応と
その後の日本全国短期間更新工事の
とりまとめで根性つきました。
・42歳
会社で資格取れと言われて、
プロジェクトマネジメントを
知ります。
自分がやってきたことを
まとめると、こういう整理が
できるという発見があり、
大きな転機になりました。
・58歳
いろいろあって広島に転勤。
CFコーチ養成塾のプレセミナーで
和仁代表と出会いました。
和仁代表にご挨拶した時、
和仁代表より
「これからどうするんですか?」
と尋ねられ、
「私は今、58歳です。
今年の秋くらいに退職して、
開業しようと思っています」
と答えたら、和仁代表が
「それは早く準備した方がいいですね」
と私のことを本当に思って、
言ってくださっているその誠実な笑顔が心にのこりました。
この出会いがなかったら、個人事業主としての覚悟がなく、
仕事以外の知り合いがいなかった私は、
開業してもうまくいかなくて、勤め人に戻っていたでしょうね。
世の中に困っている事業者さんは多いので経験ある勤め人の方々が、
たくさんキャッシュフローコーチになったら世の中のためになります。
ところで、戸田さんはどんな学生時代を過ごされましたか?
大学時代は、東京の神田神保町にある、
岩波ホールの映画をよく見に行きました。
当時、岩波ホールで上映されていた映画は、
ヨーロッパの前衛的な作品が多かったです。
学生の時に、
影響を受けた本として、
・高橋 和巳さん
「我が心は石にあらず」
心優しい勤め人が、
企業内での栄達と労働運動の間で
思い悩んで、勤め人としては
破滅する(でも幸せになる)話。
こういう勤め人のあり方もあるのだと知りました。
・細井 和喜蔵さん
「女工哀史」
明治・大正期の日本の工場の実態を、
客観的に記録したルポルタージュ。
これをきっかけに、
工場で働くことに関する本を読むようになりました。
戸田さんが就職先を選択した
きっかけは何ですか?
私の親や友人は、
私が勤め人になるのは
無理だと思ってました(笑)
それは、人としゃべることが
苦手だったからです。
それでも、工場には
興味があったので、
大学時代には、意識的に
工場でアルバイトしたりしていました。
働くことは大変だけど、
楽しくもあることを実感。
どうせなら、多くの人が
できるだけ楽しく働くことが
できるようにしたいと
考えるようになりました。
肉体的に
つらい労働をなくすために、
自動化された工場を作っていく
仕事がしたいと考えて、
就職先を選択しました。
自分が現役のうちに、
世の中の工場は
ほとんど自動化されるような
イメージをもっていました。
今にして思えば、
たかが50年間では
そんなに変わらないものだと
いうことにいまごろになって
気がつきました。(笑)
前職での成功は何ですか?
ある社会インフラ事業の担当を18年間やって、
いくつかの大きなプロジェクトに関わることができました。
また、事業計画の立案と実行、組織開発などをやって、
規模は小さいものの社内トップクラスの
事業成績を上げることができてもてはやされてました。
勤め人なんてなれないはずだったことをすっかり忘れて、
これならもうちょっと上に行けるかなと考えていましたが、
事業上のエラーがありまして、57歳の時、広島に異動になりました。
今振り返ってみると、その時が私の人生のどん底です。
自分が悪いのですが、それだけでもなかろうという割り切れなさ。
そういえば、そもそももともとやりたかったことを
やればいいじゃんと思いました。
戸田さんが、退職後、中小企業の「お手伝い」を
しようと思ったきっかけは何ですか?
学生時代に読んだ、細井 和喜蔵さんの「女工哀史」に影響を受けて、
重い、辛い、苦しい労働をなくす技術である
「工場の自動化」を大学で学んでました。
関連の研究者になりたい
ということで、
就職先を探しましたが
みんな落ちてしまいまして、
前職の企業に就職しました。
その後、協力会社さんの改善の
すお手伝いをるようになって、
中小企業診断士という
資格があることを知り、
28歳のときに合格しました。
30歳過ぎたくらいで辞めて、
コンサルティングファームや研究者など、
普通の勤め人っぽくないことが、
できないかなと考えていましたが、
結局、30年越しで実現することになりました。
時間がかかったのは、
「中の人」でいることが
楽しくなったのだと思います。
本音と建前使い分けてとか、
きちんと報連相してとか、
上司に合わしてとか、
いわゆる勤め人的なことは
実際できませんでしたが、
社内外の仲間と
わいわいやることは楽しかった。
だからやめる踏ん切りがつかない。
私の仕事は、「コンサルティング」ではなく、
「お手伝い」と言っています。
コンサルタントは、「外の人」であることに
価値があるので、私は無理。
「お手伝い」は、
「中の人」と「外の人」の間というつもりです。
戸田さんの現在の活動を教えていただけますか?
現在は、下記のような比率になっています。
伴走型お手伝い:公的支援:社会課題解決 = 4:4:2
① 伴走型お手伝い
いわゆる顧問業務で、2社さんは
開業以来継続しています。
ありがたいことです。
② 公的支援
専門性に対して仕事が来るので、
工業分野(製造業、建設業、
情報通信業など)が中心です。
内容やスケジュールの要求条件が高い仕事が多いので、
自分の能力を上げるためにやっています。
③ 社会課題解決
所属するチームが主体になって、
社会課題解決に貢献する仕事です。
ボランティアが前提ではなく、
収益化することでこの活動の
比率を上げたいと考えています。
・小さな酒蔵未来経営研究会
地域文化の担い手である
小さな酒蔵さんの活性化。
・龍の背中プロジェクト
広島県因島の活性化。
・小さな広報研究会
神戸を中心としたNPOさんのお手伝い。
共通のスタンスは、必要あればなんでもやること。
やっちゃダメなやり方ですが、
事業者さんは自分はこれしかできないとは言えないのだから、
「お手伝い」のためにはこちらの準備が必要です。
それに加えて、自分の限界を試してみたい。
例えば、宗教法人の事業承継プロジェクトは刺激的でした。
とはいえ、関係者に迷惑はかけられないので、
「ぎりぎりここまでならできそうだ」ということを見極めて、
無理な領域については、できる人を連れてくることを考えます。
プロジェクトマネジメントということでは、
難しいテーマがあった時、これをどうしたらいいか?
ホワイトボードを前に、
みんなと一緒に
考えるやり方が得意です。
フラットに言いたいことを
言ってもらい、
筋の良さそうなアイデアに
肉づけをしていくことで、
みんなの表情が
変わることが楽しみです。
また、これまでいろいろな状況の
工程表を2,000個ぐらい
書いてきた経験から、
どんな業種でも使える方法論として、
「現場に笑顔をもたらす、工程表づくりをお手伝い」
というキャッチフレーズを作って、コンテンツ整備中です。
そのうちに書籍にしたいと妄想してます。
今後の戸田さんのやりたいことを教えていただけますか?
私の工程表では、85歳くらいまで健康で過ごしています(笑)
今後20年間で、もう1回やることを変える予定です。
植物が好きなので、
お花屋さんが良いですね。
好きなことをしながら、
皆さんに喜んでいただけることが
私の喜びにもなります。
ただ、接客は得意ではないので、
誰かにお願いしたいと思います。
誰もが一度は味わう
サラリーマン(会社員)の悲哀
しかし、戸田さんの
ものの見方・とらえ方で、
結果として〇(丸)くなる。
急がず、焦らず、ご自身のペースで
おもしろく人生を歩まれる
戸田さんのお話は、
どこか、ほんわかしてきます。
人生ケ・セラ・セラ
戸田さんとお話をすると、いろんな問題はあるけど、
まいっかと思えてくる。
将来、お花屋さんを開業されたら、
「戸田さんに会いたい」と言って、来られるお客様であふれることでしょう。
お店の奥で恥ずかしそうにされている、
戸田さんが思い浮かびます。
<文責> 大宮10期 大橋 弘子
(株)スタートアップウェイ
キャッシュフローコーチ
https://start-up-way.com/